2016/02/11

卒論






今日何気なくヤフーニュースのトピックスを見ていたら、ある話題が目にとまった。津波の被災地で霊を乗せたというタクシードライバーに聞き込みをした学生の、卒業論文についてである。
幽霊現象という非科学的な部分に触れているため、ネット上で批判的な声もあったらしいが、幽霊自体ではなく、いまだ遺体の見つからない「曖昧な死」について考察されている。



真夏にコートを着た霊を見た人が沢山いるそうだ。真冬の姿の少女は、タクシードライバーの前に現れ、自分の家を伝えたという。連れて行くと、ありがとうと伝えて消えたそうだ。きっと、自覚しないまま、命が尽きてしまったのかもしれない。そういった事例が、他にも幾つかあったという。タクシードライバーだけではなく、飲み屋のおばちゃんなど、様々な職業年齢の人が体験したそうだ。



ニュースからの抜粋になるが、東日本大震災を特徴づけるのは「あいまいな死」だそう。
地震から津波到達まで時間があったから、生き残った方々が、『あのときこうしていれば』などの強い後悔がうまれるのだ。
なんと辛い事だろうか。
しかも、遺体が見つからないために、大切な人が本当に死んだのかはっきりしないまま、喪失と向き合わなくてはならないのである。




震災はだいぶ前の事のように感じられてしまうが、そういった感情がどこかで確実にいまだ存在している。今日はその記事に触れたことで、静かに実体のない哀しみについて考えているところだ。





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